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軍都だった久留米

久留米は第二次世界大戦が終わるまで軍都として栄えました。

遡れば日露戦争終結後の1905年、日本は世界と肩を並べるために軍事増強を図りはじめました。久留米はその時流に乗り、新設されることになっていた十八師団を誘致するため、陸軍に約20万坪の用地を提供しました。

陸軍は三井郡上津荒木村の山林100万坪を買収して1911年に十八師団の演習場としました。大演習が明治天皇の臨席のもとに行われました。

Rimg53061937年に再編成された十八師団は25千の大部隊でした。菊の紋章をつけることを許された十八師団は中国や東南アジア諸国に展開し大きな戦果を挙げました。一時は世界戦史に不滅の武名を残したと評されました。しかし、第二次世界大戦の末期には劣悪な条件のなかで、最強軍との評判の故に撤退を許されず、南方の戦線では大きな犠牲を払うことになりました。久留米市大善寺町にある碑文には、23千余人が命を落としたとあります。
【写真】久留米市大善寺町にある十八師団ゆかりの碑。「菊花之塔」と書かれている。上部に菊の紋章がつけられている


久留米市は、軍都であったが故に終戦直前に米軍の空襲を受け、中心街が焼け野原になるという犠牲も強いられました。

Rimg5300 くるめ医療生協のクリニック南町があるあたりは軍事施設が置かれていました。周辺にはたくさんの碑が建てられています。
【写真】久留米市南町にある「輜重兵聯隊之跡」と「忠馬之碑」。「輜重(しちょう)」とは、軍隊の糧食・武器・弾薬など軍需品を輸送する兵科

旧陸軍の演習場は現在、自衛隊の演習場として使われています。ここにはPAC3も配備されています。筆者は2010年に民主団体の一員として久留米の演習場にPAC3を配備すべきでないと久留米市に申し入れを行いましたが、当局は「国の政策には口を出さない」との姿勢を崩さず、配備を容認しました。軍都として繁栄し続けることはできなかったという教訓にも、「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない」という「核兵器廃絶平和都市宣言」に盛られた精神にも反するものです。

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コメント

「駐車場管理者が違法駐車の車のタイヤをパンクさせる」程度の意味かと思いましたが、それだとタイヤをパンクさせた人が「器物損壊」の犯罪を構成することになるので、「まさかそこまでは・・・」、と思ったのですが、意外とやられるのかもしれませんね。

投稿: 育 | 2015年3月20日 (金) 23時09分

約2万3000人の軍人が亡くなったことを初めて知りました。このことの反省を踏まえて、2度と戦争をしない。第2次大戦の戦いを日本においてもまた東アジアでも世界でも、最後にして、戦いを終わらせる「終戦」を決意し、その運動を強めないといけないですね。
2度と若者をそして隊員を戦場に送らない。久留米市民がそのことを自衛隊員に、そして安部首相に伝えたいですね。

投稿: サンシイ碁 | 2015年4月11日 (土) 11時18分

サンシイ碁さん、コメントありがとうございます。

本当にそうですね。昨今の政府のやり方は気に入りません。なんとか運動を広げていかなくては。

ところで、サンシイ碁さんは囲碁をされるのですか。私は大の愛好家です。

投稿: シェーン | 2015年4月11日 (土) 20時18分

PAC3は戦争の道具ではありません。2009年に北朝鮮が長距離弾道ミサイル発射を予告したため全国に配備し、国民を守るのは自衛隊の、そして国の使命です。
また自衛隊の演習も戦争を再び起こすためにやっているわけではありません。全て国防のためのものです。
本当に平和を願っているのなら正しい知識を身につけてください。平和を願う尊い心を政権叩きの道具にしないでください。

投稿: | 2017年9月 1日 (金) 06時41分

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