中学校の思い出

中学校の思い出(15) 農作業を手伝う

私の家は農家でしたから小さいときから農作業を手伝うのはごく自然なことでした。農繁期に学校は短縮授業になり全校生徒はいつもより早く帰っていました。しかし、そうひんぱんにはなかったような気がします。

いまでもよく覚えているのは田の畦(あぜ)作りです。泥(どろ)をくわで畦に上げて形を整え塗りかためるのです。力も技術も要る仕事でしたが、私はこなしていました。

数日経って泥畦(どろあぜ)が半乾(はんがわき)きになったころ、木槌(きずち)で叩いて5センチの深さの穴を開け、大豆と小豆を数個ずつ入れていきます。そうしてそのうえに灰を入れて蓋(ふた)をするのです。

しばらくすると、大豆と小豆の芽が出てきますし、だんだん大きくなっていきます。秋には収穫することができるのです。この仕事は私がよくやりました。

前回、「中学校の思い出(14) 自殺点を入れる」

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このシリーズは、中学生になったYさんに送った私の「中学校の思い出」です。

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中学校の思い出(14) 自殺点を入れる

スポーツは、卓球や野球の他にバスケットボールをやっていました。同級生のO君は身体が柔らかく、才能がありました。私は努力型でしたがレギュラーメンバーでした。

2年生のときだったでしょう、他中学との対抗戦があり遠くの村まで遠征しました。現在は広域合併で同じ町になっていますが、かなりの距離があります。徒歩で行ったのか自動車で行ったのか忘れてしまいましたが…。

試合に出場しました。初めての対抗試合であがって、自分のゴールにシュートをしてしまいました。とうぜん相手の得点になります。こういうのを自殺点といいます。

試合直後にはかなり落ち込んだはずです。「はずです」と書いたのは、私がこのことをすっかり忘れていたからです。20年も経ってからの同窓会で同級生の誰かが、「おまえは自殺点を入れたことがる」と暴露しました。私もそう言われてみると、少しずつ記憶が戻ってきました。派手なゼスチャーで審判をやっていた先生のことも思い出しました。

とにかく、私は自分に都合の悪いことはすぐ忘れてしまうという特技をもっているのです。

前回、「中学校の思い出(13) 竹スキーを作ったが」
次回、「中学校の思い出(15) 農作業を手伝う」

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中学校の思い出(13) 竹スキーを作ったが

私が子どもの頃、冬にはよく雪が降っていました。多いときは1メートル50センチも積もりました。冬はとても寒かったので、家の玄関の近くには風をさえぎるため雪囲いをしていました。カヤか何かで作ったへいのことです。

たくさん雪が降ったときなど、屋根からずり落ちた雪が山になり、屋根に届くということもありましたよ。トンネルを掘ったり、落とし穴を作ったりして遊びました。

昼間に大雪の表面が解け、夜に気温が下がったときなど、雪の表面が固く凍ります。そんな朝には学校に向かって雪の上をまっすぐに歩いて行くことができました。ときどき柔らい所があり、ずぼっとひざまで埋まってしまうこともありましたが。

寒い朝など屋根からつららがいっぱいぶら下がっていました。それを折ってがりがり食べたこともあります。島根県ではつららのことを「しんざい」と言っていました。

近くに弘法大師をまつった社(やしろ)があり、そこの坂道はそりで下るのに絶好の場所でした。男の子たちは手作りの竹ぞりで夢中になって遊びました。私も自分で作ったことがあります。

中学生になるとそりでは満足できず、竹スキー作りにも挑戦しました。もうそう竹を二つにわり、先を火であぶって曲げます。難しいのは靴を乗せる部分です。板を竹に取りつけ、足の甲をしばるように古タイヤをくぎで打ちつけます。しかし、長靴のかかとで踏みつけた雪が凍って山になり、つるつる滑って靴とスキーが離れてしまうのが難点でした。いろいろ工夫しましたが、うまくいきませんでした。ストックはうまく作れました。

雪は大人にとってはやっかいなものだったでしょうが、子どもには楽しい環境を作ってくれたものです。春が来て雪がなくなるときの寂しい気持ちは今でも思い出します。

私は大人になってからでも雪が降るとうきうきして、「もっと降れ、もっと降れ」と心のなかで叫びます。

前回、「中学校の思い出(12)

次回、「中学校の思い出(14) 自殺点を入れる」

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中学校の思い出(12)

中学1年生から3年生までの担任はM先生でした。同窓会のおりにこんなことを話してくれたことがあります。「1年生の君たちの担任になって、学力が低いことにびっくりした。どうしたものかと思い悩んだものだ」と。

理由はあります。以前に書いたことですが、小学校の5、6年生のときの担任はA先生で、算数と工作しか教えてくれませんでした。私は両方好きだったので、喜んでいましたが…。

M先生の理科の時間でした。先生が静かにしなさいと何度も注意しているのにみんな先生の言うことを聞きません。とうとう先生は怒って教員室に帰ってしまいました。

私は級長だったので、みんなに「静かに授業を受けよう。今から先生を呼びに行く」と提案し同意をえました。教員室に行って、「みんな静かに話を聞くと言っています」と謝り、先生に授業を再開してもらいました。

今考えると怒って授業を止めてしまう先生も未熟だったのかもしれません。私は中学生のときから優等生だったのですよ。

前回、「中学校の思い出(11)」
次回、「中学校の思い出(13)」

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中学校の思い出(11) 学生帽をわざと汚す

ぴっかぴかの小学1年生がおろしたてのランドセルに真新しい帽子をかぶっているのをみると微笑ましく思えますが、中学生ともなるとそうはいきません。まっさらの物を身につけるのは恥ずかしいものです。

中学2年生の頃か3年生の頃から学生帽をかぶるようになりましが、新しすぎるのは恥ずかしいので、折り目を崩しわざと汚していました。先輩のなかには卵をつけて机でごしごしこすって汚したという人もいましたが、さすがに私はそこまではしませんでした。

かばんも肩つりから手さげになりましたが、これも手でさげるのではなく、脇に抱えて歩きました。手にさげる持ち方と脇に抱える持ち方の違いは、中学生にとってはとても大きいのですね。

前回、「中学校の思い出(10)」
次回、「中学校の思い出(12)」

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中学校の思い出(10)

中学2、3年生の頃のことです。夏でも半ズボンではなく、長ズボンをはいていました。上は白い半そでのかいきんシャツをが普通でした。

ところが、友人のO君は白い長そでのシャツで、そでをひじの下までまくりあげて着ていました。それがかっこいいのです。私は強く長袖シャツにあこがれました。

しかし、私の家は貧しかったので、長そでシャツを買ってと言うことができませんでした。そのうえ半そでより長そでの方がよいという理由を説明することができないのです。親に、「とにかく長そでがいい」と言っても、理解してもらえないだろうとわかっていました。

今ではカッターシャツをよく着ます。暑いときなど腕まくりをしますが、そのたびに当時の気持ちを思い出します。なぜそんなにあこがれたのでしょう。たぶん腕まくりに大人の雰囲気を感じとっていたのでしょうね。

大人の目で見ると高校生がはいているルーズソックスより、普通のソックスの方がいいように思えますが、当の高校生にはルーズソックスが数段いいのでしょう。ルーズソックスをはいている女子学生に理由を聞いても、納得できる答えを言ってくれるかどうか疑問です。ファッションにはそれほど深い理由はないからです。

前回、「中学校の思い出(9)」
次回、「中学校の思い出(11)」

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中学校の思い出(9)- フライがとれない

中学2年生になったとき、野球部にも入りました。私の学年には14人しか男子がいないので、入部するのが当然という雰囲気でした。それまで野球というものをやったことがないので、最初のうちはキャッチボールがやっとできる程度でした。

私の4級上の兄はピッチャーをやっていたので、コーチのM先生から私もピッチャーをやれと指示されましたが、まったくものになりませんでした。

私は外野に回されました。先生のノックするフライを受けなくてはならないのですが、フライがどこに落ちるのかぜんぜんわからないのです。「前、前、突っ込め」とか、「右、右、もっと速く走れ」という先生の大声にもかかわらず、捕球はひどいものでした。

大人になってからソフトボールをするようになって、フライを少しはとれるようになりましたが、それでもボールの来る可能性の少ないライトの守備につくようにしていました。人がランニングキャッチなど上手にするのを見るとうらやましくなります。

前回、「中学校の思い出(8)」 自転車をもらう」

次回、「中学校の思い出(10) シャツの腕まくり」

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中学校の思い出(8) 自転車をもらう

自転車は貴重品でした。私の家では買ってもらうなど考えられませんでした。

私の叔母が嫁ぎ先は林業を営んでいて裕福な家庭でした。要らない自転車があるので欲しかったら譲るという連絡がありました。私は即座にもらいたいと返事をして自転車を引取に行きました。

叔母の家は隣村です。山道の峠を越えて1時間半はかかる所にありました。その距離はいとわず出向きました。行きは山道の峠を越えて、帰りは遠回りの平坦な道を自転車を押して帰りました。

自転車を大切にしたということは言うまでもありません。パンクなどは自分で直していましたよ。

今もその叔母は存命しています。軽い認知症にかかっています。私は自転車のことをよく覚えているので、手紙で何度もお礼を言い、見舞いに行ったときには口頭で自転車のことを話しています。

前回、「中学校の思い出(7) フォチョネイム?」
次回、「中学校の思い出(9) フライがとれない」

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中学校の思い出(7) 珠算3級に合格する

たしか中学生2年生になってから珠算を始めました。私の姉の同級生が先生で、一時期、先生の家に習いに行っていました。検定試験は2種類ありましたが、私の受けたのはその一つで、普通の加減乗除のほかに、「日歩3銭の半年複利で3年間借りたら、元利合計はいくらになるか」というような問題もあったように記憶しています。応用問題は得意でした。

いよいよ3級の検定試験。私を含めて二人が受けました。2級を受ける人はいませんでした。もう一人は1級下の男の子で、彼はつねづね私をライバル視しているようでした。

試験が終わって、こんなことを考えました。一番いいのは、私ひとりが合格すること。次にいいのは、二人が合格すること。その次にいいのは、両方とも合格しないこと。最悪は、彼が合格して私が不合格になること。結果は、私一人が合格しました。

今、思い返してみるとほろ苦さの混じったうれしさです。珠算は2級をめざしかけましたが、本格的な暗算もあり、少々の練習では到達しないことがわかり、いさぎよく止めました。

前回、「中学校の思い出(6) フォッチョネイム?」
次回、中学校の思い出(8) 自転車をもらう」

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 中学校の思い出(6)  フォチョネイム?

私が生まれたのは田舎の山村ですから小さな診療所がひとつあるだけでした。そこにT先生という医者がいました。普通は先生も暇ですし、優しい人でしたから、中学1年生の私たち2、3人はよく遊びに行っていました。時々は英語も教えてもらいました。

事務長は私たちが遊びに来ることを好んでいませんでした。患者が来てもなかなか先生が腰をあげないからです。私たちは事務長のいる玄関を通らずに窓から入ったりしたこともあります。

ある日、私たちは英語を習っていました。「フワット・イズ・ユア・ネイム?」と発音をしていると、先生のおじさんという人がやってきて、そんな発音はアメリカでは全然通じないと言ったのです。その人は、「おれはカシュウに住んでいる」というのです。カシュウとは「加州」のことで、アメリカのカリフォルニア州のことだとずいぶん後になってわかりました。

おじさんは、「フォチョネイム?」と発音するのです。でも私は納得できませんでしたね。そういうのは無学の耳学問をした人の発音だと思ったからです。それって、今思うと半分あたって、半分は間違っていますね。聞こえたとおり発音をするというのも大切なことですから。

前回、「中学校の思い出(5) 卓球、県大会で第3位」

次回、「中学校の思い出(7) 珠算3級に合格する」

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